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以前、指導医講習会に参加したときのことです。私は、できるだけ目立たないように、無難に受講して修了証だけをもらおうと考えていました。まるで忍者のように気配を消し、その場に潜んでいるつもりだったのです。しかし、講習会が終わってみれば、まさかの表彰を受ける結果になりました。
なぜ表彰されたのか、今でもはっきりとは分かりません。ただ、グループディスカッションの中で、普段私たちのチームで行っていることを、何気なく話しただけでした。具体的には、こうです。
「研修医を育てるには、学会発表をさせたり、論文を書かせたりする。そして学会が終わった後には、ご褒美としておいしいご飯とお酒を御馳走する。それだけで、研修医はやる気になる。」
私にとっては、普段から自然に行っている「当たり前」のことでした。しかし、この話が他の参加者にとっては新鮮だったようです。
もちろん、現在は働き方改革の影響で、「労働」と「自己研鑽」の切り分けが求められ、学会発表や論文執筆を指導することが難しい時代になっています。また、飲み会に誘うこと自体も、場合によってはパワハラとみなされるリスクがあるため慎重にならざるを得ません。
それでも、学会発表や論文執筆は、個人の成長だけでなく、チーム全体の成長にも大きく貢献する活動です。医療現場での学びや経験を形にして共有することで、チームの診療能力が向上し、次世代の医療者を育てる土壌が作られるのです。
この章では、学会発表や論文投稿が個人とチームの成長をどのように加速させるかについて、具体的なフレームワークや視点を交えながら解説します。T.O.T.Eモデル、アソシエイト/ディソシエイト、そして「手柄は部下に、責任は上司に」というリーダーシップの考え方を組み合わせ、学会発表や論文投稿の可能性を一緒に探っていきましょう。
アソシエイト/ディソシエイトの視点で振り返りを活用する
日々の診療では、一つひとつの症例に没頭する「アソシエイト(主観的視点)」が必要です。患者に寄り添い、状況の中に深く入り込むことで、適切な診断や治療が行われます。しかし、こうした集中状態では、全体像を見落としたり、新たな視点を見出せないことがあります。
一方、学会発表や論文執筆の準備では、「ディソシエイト(客観的視点)」に切り替えることが求められます。現場を離れて症例を冷静に振り返ることで、その場では気づけなかった問題点や改善点を明確にすることができます。
例えば、診療中に気づけなかった病態や治療効果が、ディソシエイトの視点で症例を俯瞰することで見えてくることがあります。どうして、このような症状がでているのかが患者を目の前にしているとわからなかったのが、症例を俯瞰することで病態が理解できたり、効いていると思っていた治療が一歩引いて俯瞰すると効いていないことがわかったりします。ディソシエイトの視点で症例を俯瞰するプロセスを繰り返すことで、次回の診療では「次はこうした方が良い」という改善案を具体化し、より良い結果を目指すことができるのです。
T.O.T.Eモデルで振り返りを診療能力向上に活用する
T.O.T.Eモデル(Test, Operate, Test, Exit)は、診療や研究の改善プロセスに応用できます。症例を振り返り、次のアクションに結びつける手順を以下のように整理できます:
1. Test(検証)
具体的な目標達成に向けた行動が効果的かどうかを検証します。臨床現場では診断に基づき計画した治療やケアがうまくいくかどうかを、まずは検証します。ここには”診断的治療”も含まれます。
2. Operate(操作)
最初に行った方法が効果的でなかった場合には、次回に向けた新たな具体的な行動計画を立てます。たとえば、「別の診断方法を試す」、「新たな治療手法を導入する」、「投薬内容を変更する」といった計画です。
3. Test(再検証)
そして、新たな具体的な行動計画が効果を発揮するかどうかを再検証します。治療であれば、治療効果判定の基準となるマーカーを見つけてそれをフォローすることで効果を測ることが可能となります。
4. Exit(終了)
成功した場合には、プロセスを終了します。うまくいった方法は、次の診療や指導に活かすことができます。
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学会発表、とくに症例報告では、うまくいかなかった症例を発表することもあると思います。T.O.T.E.モデルの概念があると、その症例を共有して多くの人とディスカッションすることで、次回、同じような症例が来た場合、どのような対応をするべきか、つまり、何をどのように”Operate(操作)”すれば良いかが明らかになります。
また、指導している部下や後輩が自分が知らない知識や視点を提供してくれることがあります。そのフィードバックや新たな学びを素直に受け入れて、”Operate(操作)”することも重要です。
若手が調べてきた情報やアイデアを受け入れることで、リーダー自身の診療能力も向上し、チーム全体の成長につながります。何より、上司や先輩が自分の意見やアイデアを受け入れてくれたということは、部下や後輩の自信にもつながりますし、お互いの信頼関係を深めることにもつながります。
「手柄は部下に、責任は上司に」の精神
リーダーとしての最も重要な役割は、若手や後輩に成功の機会を提供し、成長を支えることです。「手柄は部下に、責任は上司に」という方針を徹底することで、若手は安心して挑戦でき、やる気を引き出すことができます。
しかし、残念なことに、「手柄は上司に、責任は部下に」という正反対の対応をする上司や先輩が少なくないことも私は知っています。上司が講演などで部下がまとめた症例やデータを発表することもあるでしょう。そのようなときは、「これは〇〇君が頑張ってまとめてくれたものを借りてきました」と一言付け加えるだけで、部下や後輩が持つ上司に対する印象や信頼は大きく変わります。
私自身、自分が診断や治療した症例、自分のアイデアで始めた研究を惜しみなく後輩に譲り、彼らの学会発表や論文投稿を支援してきました。私の英語論文の業績を調べていただけると、私が筆頭著者の論文が少ないことがわかります。それも後輩に譲っているからです。この姿勢が、彼らの自信を育むとともに、チーム全体の成長を加速させます。私は自分のimpact factorを上げるよりも、後輩や部下の成長、チームの成長が何よりの財産だと思っています。
部下や後輩に専門家としてのアイデンティティが生まれる
若手や後輩が学会発表や論文投稿に挑戦し、成功を収めることで、彼らに専門家としてのアイデンティティが形成されます。
学会での発表を通じて、その領域のスペシャリストから質問や評価を受けたり、論文が採用される経験を積むことで、「自分はこの分野で意見を述べられる立場にある」という認識が生まれます。この自己認識が、専門家としての自信を強化し、次の行動に積極的に取り組む姿勢を促します。
さらに、専門家としてのアイデンティティを持つ若手は、単なる受け身の学び手から、チームに貢献する主体的な存在へと成長します。その結果、チーム全体が活性化し、自走するチームとなり、より高度な診療や研究に取り組む原動力となります。
チーム全体の診療能力向上へ
アソシエイト/ディソシエイトの視点で振り返りを行い、T.O.T.Eモデルを活用しながら若手を育成することで、チーム全体の診療能力は確実に向上します。また、若手が専門家としてのアイデンティティを持つようになると、チームの活力が増し、次世代の医療の質も向上していきます。成長した若手が自分を追い抜く勢いを見せると、若手潰しに走るというのはどこの世界にもみられることです。しかし、若手が自分が脅かすような存在になることこそ、チームが成長している証だと思います。
「手柄は部下に、責任は上司に」という精神のもと、若手に挑戦の場を提供し、成功を共有する。これが、リーダーとしてチームを成長させる鍵であり、診療の未来を切り拓く第一歩なのです。
■コラム:アソシエイトとディソシエイトとは
NLP(神経言語プログラミング)では、アソシエイト(Associate)とディソシエイト(Dissociate)という概念を使って、自分が経験する状況の捉え方を説明します。この2つの視点を、カメラの「ズームイン」と「ズームアウト」を切り替えるように使い分けたり、時には同時に活用することで、より効果的な思考や行動が可能になります。
アソシエイト(Associate):ズームインの視点
アソシエイトとは、カメラをズームインしたように、自分が状況の中心に入り込み、主観的に体験する視点のことです。この視点では、その場の感情や感覚をリアルに感じ取り、細部に集中することができます。
利点:
• 現場で素早く状況を把握し、判断を下す場面で有効です。
• 患者に深く寄り添い、共感しながら治療を進める際に役立ちます。
欠点:
• 状況に没頭しすぎると、全体像が見えなくなることがあります。
• 感情に振り回されることで、冷静な判断が難しくなる場合があります。
ディソシエイト(Dissociate):ズームアウトの視点
ディソシエイトとは、カメラをズームアウトして全体像を俯瞰するように、状況を客観的に眺める視点のことです。この視点では、感情的な影響を受けにくくなり、冷静に状況を分析できます。
利点:
• 状況を冷静に振り返り、全体像を把握する場面で有効です。
• 症例をまとめたり、学会発表や論文執筆の準備をする際に役立ちます。
欠点:
• 細部に注意が向きにくくなるため、現場のリアルな感覚をつかむには不向きです。
• 患者との共感や信頼関係を築く場面には適さないことがあります。
一流スポーツ選手に学ぶアソシエイトとディソシエイトの活用法
一流スポーツ選手は、競技中にアソシエイト(ズームイン)とディソシエイト(ズームアウト)の視点を同時に活用することで、最高のパフォーマンスを発揮します。
競技中、一流選手は自分のプレーに完全に入り込んで(アソシエイト)、その場で瞬間的な判断や感覚をフルに活用しています。同時に、自分自身を俯瞰するもう一人の「自分」を持ち、試合全体の流れや相手選手の動きを客観的に捉える(ディソシエイト)ことができています。
たとえば、一流のサッカー選手がボールを持ちながら次のパスの相手を探すとき、目の前の相手選手の動きやボールの感覚に集中(アソシエイト)する一方で、フィールド全体の配置やチームメイトの動きを「上空から見るように」把握(ディソシエイト)しています。この両視点を切り替えるのではなく、同時に活用することで、正確で素早い判断を可能にしているのです。
医療現場での応用
この一流スポーツ選手の例は、医療現場にもそのまま応用できます。診療中は、患者に寄り添い、症状や経過に深く入り込むアソシエイトの視点が必要です。しかし、同時に、自分が行っている診療全体や治療プロセスを客観的に見渡すディソシエイトの視点も持つことで、診断や治療の精度が高まります。
たとえば、診療中に患者の細かな症状や反応に集中しながらも、「この診断の根拠は明確か?」「他の可能性を見逃していないか?」といった客観的な問いを頭の片隅で意識することで、より的確な診療が可能になります。
ズームインとズームアウトを同時に活用する重要性
一流スポーツ選手が競技中にアソシエイトとディソシエイトの視点を同時に活用するように、医療者もこの両視点をバランスよく使うことが求められます。アソシエイトで細部に集中しながら、ディソシエイトで全体像を俯瞰する。この柔軟な視点の切り替えと同時活用が、現場での適切な判断と振り返りによる改善の両方を実現する鍵となるのです。
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